Wednesday, March 5, 2014

★バガヴァット・ギーター第3章17節

バガヴァット・ギーター第3章の前半で、クリシュナは、この宇宙のサイクルをチャクラ(輪、車輪のように回り続けるもの)。そして私達のカルマをそのチャクラを動かし続ける原動力として、ヤグニャ(火の儀式)に例えています。

バガヴァット・ギーターの中で、自分の感覚を満たし喜ばせる為に、何かを手に入れようと追い求める人を非難していることがしばしあります。そこには、私達のすべきことに集中し、注意をむけなさいという意味が込められています。

もし、今やるべきことがあるのに、それをしなくてもいいと感じたとします。しかし、人々が義務を放棄すれば、世界の調和や秩序がうまく回らなくなっていくでしょう。自然界に存在するもの全てが役割を持っています。その中でも人間は、この宇宙の生態系を構成する一員であり、中心的な存在です。自分からこの生態系が始まっており、中心となっているということを理解した時に、他者における繊細さや理解が生まれます。

ここまでの話を踏まえて、バガヴァーン クリシュナは言いました。

यस्त्वात्मरतिरेव स्यात् आत्मतृप्तश्र्च मानवः |
आत्मन्यवे च सन्तुष्ट: तस्य कार्यं न विद्यते || १७ ||

yastvātmaratireva syādātmatrptaśca mānavah
ātmanyeva ca santustastasya kāryam na vidyate
|| 17 || 


Whereas, for a person delighted in the self, who is satisfied with the self, contended in the self alone, (for him) there is nothing to be done.

感覚的な悦びを求める人と反対に、自分自身の存在が喜びそのものである人は、つまり、自分自身に満たされている人は自分自身を追い求める。彼にとって「しなければならない事」など何もない。

シャンカラはこのシュローカに対し、このようにコメントしています。

喜びに満ち溢れている人、その人こそが“全てを放棄した人”。その人は自分の舌を喜ばせてあげるような小さな人ではありません。殆どの人は、自分を満たすために外面的な何かを求め、手に入れたがります。全てを放棄した人は、自己のみで満たされています。その人達をニャーニといい、彼らは何かを手に入れるために、しなければならないことなどありません。

自分自身(アートマ)をサムサーリ(小さい自分、悲しみや好き嫌いなどに侵されている自分)として見ている人は、自己の存在のみで満たされることはありません。

体験者 भोगी (ボーギー bhogī) は外の世界を操作しよう躍起になっています。ヨーギーはマインドをコントロールしようとします。彼らの問題点は、「こうなりたい」とあれこれ変えようとしてしまうこと。それは終わりのない旅となってしまいます。

人々は、自分と取り囲む環境が理想的であった時だけ、一時の喜びを味わいます。反対にニャーニは環境にかかわらず、自分自身の存在のみで幸せです。

体験者ボーギーが、新たな幸せを手に入れようとして常に走り回っている。そして行動者 कर्ता (カルター kartā)となります。その反面、彼自身をカルター "doer"として見ていないのが、ニャーニです。


No comments:

Post a Comment

LinkWithin

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...